5月29日の日報 さ の巻

お疲れ様です。伊藤です。
本日はこれにて失礼いたします。

朝一番、真剣な表情でスーツハンガーに手をかけようとしたその時、私の携帯がけたたましく鳴り響いた。

静寂で満ちたこの部屋の空気を切り裂かんばかりに泣き叫ぶHTC Butterflyを、赤子をあやすかのようにやさしく手にとった私は、
「フ、仕事用携帯の着信音ほど効き目のある目覚ましはないな」
と軽く自嘲しながら「通話」のボタンを押す。

私だ。
……そうか。わかった。

なんのことはない、今日行くはずだった打ち合わせが急遽延期になった報せであった。

電話の主も出勤途中なのだろう、どこか外から電話をかけているらしく、彼の声のうしろでJR線が駅へ着くのを知らせるチャイムが騒がしく暴れている。
「ああ、そうだな」
相づちで応えながら、私は横目でハンガーにかかったスーツへ何度か視線を送る。
「(今日のところは、痛み分けだな)」

もしもスーツのズボンのボタンが閉まらなかったら……。
そうなったら、禁断の術である「ボタンはずしたまま、ベルトのバックルで隠しちゃお」を使う決心はついていた。
ボタンは閉まっていないため、歩いているうちにチャックが徐々に上から開いてしまうという危険なリスクを冒すことになるが、もはや選択の余地はなかっただろう。

もし、スーツのボタンが難なく閉めることができていたら?
そんな野暮なことを聞くのかい、決まっているだろう、帰りにいつものカフェに立ち寄って、甘い抹茶ラテとNYチーズケーキを嗜む権利を得るのだ。自分へのご褒美として。
勝者の特権だ。

だが、勝負は運命のいたずらによって先へ持ち越された。
相撲でいうところの「取り直し」ってやつさ。
俺は土俵に塩を撒くかわりに、カテキン緑茶をごくごく飲むだろう。
そうしてスーツのズボンのボタンと再び対峙する。恐らく、来週。

だが今夜、私はこれから甘い抹茶ラテとNYチーズケーキを嗜みにいつものカフェへと足を向けるのさ。
ボタンのズボンとの決着がついていないにも関わらず、勝者の特権を貪りにいくのか、この卑怯者……と誰かの声が聞えるが、それは違う。
「むふー! 日々のお仕事おつかれ様なのだ! 満タンストレスを発散するにはスウィーツがいちばん☆ ふわわわあ〜、チーズケーキが、食べたいよぉおおおペロペロ」
デザイア(欲望)にも、適度な運動を。
犬を飼い慣らすのと一緒さ。

それでは明日も宜しくお願いしますさ。