8月7日の日報

お疲れ様です。伊藤です。
本日はこれにて失礼いたします。

私が九州新幹線に発狂寸前にまで追いやられてまでして向かった熊本で何があったのかというと、家族の法事だったのでした。
なので、日曜日は午前からお寺でお経を唱えてもらったのですが、法事の後はそのお坊さん(女性なので正確には坊守)も招いての会食が設けられ、私はもれなく坊守の真向かいの席に着いたのでした。

果たしてお坊さんとこんな近い距離で、しかも法事催事以外で面と向かうことなど滅多にないので、私は普段から不思議に思っていたことを坊守にズバズバと訊ねまくったのです。
マシンガンのような質問に箸を動かす暇もなかったろうに、坊守は少しも嫌な顔をせずにひとつひとつ答えてくれました。

「お坊さんになるための修行はやはり厳しいのか」
「修行という修行はなく、20歳以上なら誰でも受けれるテストを総本山でパスできれば、いつでも坊主になれます」
浄土真宗の場合。
「僕は30歳を超えてもこういった法事のしきたり・段取りなど何も知らないのでなんだか不安です」
「誰でも最初は分からないもの。そのうち一度でも(主催を)経験すればすぐ慣れます」
「いわゆる最近の若者の信仰心というのは、やはり薄まっているか」
「大袈裟にナンマイダ〜とするのが信仰というわけではないので一概に分かるものではないが、感覚値としてはそんなに減っているとは思わない」
「坊主の数は減っているか」
「単に人口が減っているので坊主の数も減るだろう、でも今はよく分からない。大抵は寺の子供が住職を世襲するので、住職が家庭を持っている寺ならとりあえず安泰」
「仕事としての坊主に就くことを子供がイヤがったら?」
「そこは親の背中の見せ所」
「結婚していない坊主もいるでしょうに」
「結構いる。まず職として女性に人気がない」
「そもそも儲かるのか」
「いわゆるお寺(での供養など)の仕事だけでは食っていけない」
などなど。

面白かったのは、知り合いの人が大学時代を過ごした東京でお坊さんになったが、結局数年後にある種の絶望の念を抱いて東京を離れたという話。
東京は世代間・家族間の繋がりが希薄なため、誰かが亡くなって供養を担当することになっても、法事など定期で続けるべき行事が続かない=皆知らぬ間に引っ越してしまったり、うやむやになってしまうのだそう。
その坊さん曰く「ここで仕事をしても手応え(やり甲斐)がない」ということで、故郷・熊本に帰ってしまったそうです。うーん、なるほど。

そんな感じで、「へ〜!」と唸らせられる坊さんの裏話?をたくさん聞くことができました。
歴史において宗教というのはいつも時代背景と密接に関連していて、いくつかあったエポックメイキングの中でも「大衆のための仏教」として親鸞和尚がはじめた浄土真宗はやはり歴史的事件だそうです。
それまでは上流階級の人間しか仏教を信仰することは許されず、極楽浄土=天国に行こうにも富と権力が必要だった時代が以前にあったというのは興味深い。
そして『南無阿弥陀仏』を手に入れた大衆は、その数・規模からやがて幕府にとっての脅威になる……これがのちに織田信長本願寺を焼き討ちにするに至るわけで、今になって聞くとまさに歴史の勉強そのものです。
なんだなんだ、とても面白そうじゃないですか!?
南無阿弥陀仏の気持ちを是非お持ちになってくださいね」
そう言い残して颯爽と去って行った坊守。大変勉強になりました、むしろ時間が足りないくらいです。仏教という切り口から日本のこれまでを見てみる、今更ですがとても興味深い。
なにかいい本などご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい!


……という日報を昨夜書こうと思ってましたが、ロンドン五輪の女子卓球決勝→男子サッカーのスーパーコンボにまんまとハマってしまい、サッカー終了後にはてなダイアリーに向かってみたものの寝落ちしてしまい、仕方がないので体に鞭打って朝早めに起きてこれを書いている次第。

生活に支障が出ている次第!
どっちが悪い、五輪か、日報か。

それでは明日も(今日も)宜しくお願い致します。
南無南無。