6月25日の日報 偉大なるギャッツビー の巻

お疲れ様です。伊藤です。
本日はこれにて失礼します。酔ってます。

先週末、映画『華麗なるギャツビー』を観てきました。

監督のバズ・ラーマンは私もファンでして、高校生の頃に『ロミオ&ジュリエット』に出会い、独自のスタイルで古典をリフレッシュする彼ならではの演出に魅了され、なぜか部屋に聖母マリア像や十字架を飾る程度には感化されたのは、今となってはMac Pro(2013モデル)に隠れたくなるくらい闇の歴史。
(ロミジュリの、あの水槽や、青いネオンの十字架が印象的だったもので……)

そのあとも『ムーラン・ルージュ』で
「うむ、ラーマン節も健在である!」
と唸らされており、この『華麗なるギャツビー』もどんなラーマンマジックが観れるかと期待わくわく胸ドッキドキでした。

が、ちょっと期待し過ぎた感があったのか、全体的にパワーダウンしたように思えたのが残念。ストーリーも微妙だった気がします。

とはいえ、美術/演出に関してはやはりブッ飛んでおり、プリント出力して額に入れて飾りたいシーンがなんども登場。男の私もうっとりとさせられる映画でありました。
やはり、私はラーマンが好きらしい。

さて、「ちょっと期待はずれだった」と感想を抱いたラーマン版『華麗なるギャツビー』も、しかし観終わってからなぜかずっと引っかかる。
現に、帰宅してからもあれこれ検索をかけて、他の人たちの感想などを見てまわっているのですが、こんな不思議な後味の作品も珍しい。

<ここからは若干ネタばれになるのでご注意ください>
焦点となるのは、最後のデイジーの態度。
彼女がギャッツビーの対してだした答えは、YESなのかNOなのか。
電話を手にしたということは、デイジーはYESというつもりだったのか、
ではなぜギャッツビーが撃たれる時の電話の相手はニックだったのか、
デイジーは誰に電話をかけたのか、
仮にYESだったとして、ギャッツビー死後のあの冷たい態度は一体なんなのか………

などなど、曖昧なまま終わる部分があり、
そこに対して観客は「うーン」と考えさせられるわけです。

気になるあまりに原作なども調べてみると、
原作そのものや、過去に映画化されたギャッツビーそれぞれでデイジーの描き方が異なっており、エンディングもそれぞれの解釈が存在する模様。
おぉ、ますます気になる…。

ラーマンが選んだデイジー像は、原作に忠実のようですが、そこも含んであれこれと想像膨らませられる内容。
「いまいちだった」という感想のはずが、しかしどの作品よりもどっぷり浸っているのは、これはつまり秀作ということなのでしょうか。
そんな映画でした。

余談ですが、ギャッツビーの口癖である「友よ」は、原作で"Old Sport"と書かれており、日本語訳される際にどう訳すかで多くの翻訳家を悩ませたことで有名な口語です。
かの村上春樹をして「和訳するのは無理」と言わしめたこの一言を、映画では(同じ英語なので当然ですが)ディカプリオは連発します。
「お〜、これが有名な"Old Sport"か〜」
と感ひとしお。
そういう部分もひっくるめて、予備知識を準備して挑むと、『華麗なるギャツビー』の見え方もがらりと変わるかもしれません。

さらに余談として、この作品に対して否定的なコメントのなかに、
「"The Great"をなんで『華麗』に訳すんだよ」
というものが多かったのも印象的です。
私も、見終わって同じことを思いました。
ギャッツビーという男は決して華麗ではない。
これって、ディカプリオに合わせて無理くり付けられたのかなぁ。

珍しく映画評という。
それでは明日もよろしくお願いいたします。

ギャツビーといえば、マンダム。