12月29日の日報 美食ユニバースを求めて の巻

お疲れ様です。伊藤です。
昨日も夜は疲労困憊で日報を書けませんでしたので、日が変わって日報を提出いたします。

ここ数日、なぜだか蕎麦をよく食べる。
もとより大好物、というわけではなく、寧ろ饂飩を好む私であるが、自分でもよくわからないまま「蕎麦でも食うか」となってしまう。
そうやって蕎麦ばかり食べていると、さすがに飽きる。
飽きるが、食べる。
食べながら「蕎麦も飽きたなぁ」とぼんやり思っていると、しかし次に「昔の人たち、たとえば江戸時代の庶民は普段なにを食べていたのか」という素朴な疑問に行き着いた。

ご飯、お味噌汁、漬け物、そして魚だろうか。
ドラマ「銭形平次」では、日本むかしばなし並にてんこ盛りの白飯を嬉しそうに食べるシーンがあったと記憶しているが、あんな贅沢、できたのかしら?

そんな当時の食生活のなかに、蕎麦・饂飩もあったであろう。
しかし、それはきっともっと質素なものだったと勝手に想像する。
蕎麦に限らず、食生活は今に比べて、味つけレベルからしてだいぶ違うのだろうか、だとしたらどう違ったのだろうか……
そんなことを悶々と考えながら、現代の食生活(少なくとも日本においては)はなんとまぁバラエティ豊かなものだろうか! と感嘆し、激昂ぶりにおもわず蕎麦を吹き出しかけた。

和洋中が揃うだけでなく、韓国やアジアの料理もとても多くなってきたように思える。
外来の料理文化を独自のスタイルに昇華し、それを日常レベルに定着させる神業すらこなす日本である。さらには昨今のヘルシー志向もあって、奇想天外な食材の組み合わせ、妙な制限をかけた食べ方、ついではコラーゲンを固めたボールといった新(珍)商品の開発…など、贅沢極まりない話では枚挙に暇がない。

食べ物に限らず、例えばお酒。
ビールにコーラを入れる、という話をつい先日知ったけれども、そんな「え〜!?」みたいな発想が、料理の世界を広げていく原動力といえなくもない。

ルール無用の「旨の追求」、まさしく食の自由貿易時代。
無限に広がる美食ユニバースを、果たして江戸時代の、鎌倉時代の、弥生時代の人々はちょっとでも想像したのであろうか〜(か〜 か〜 か〜 ←エコー)


フと我に返った時、私の目下には残りひとくち程の蕎麦が残っていた。
「おまえは、そんな激動の歴史において、ブレることなく自我を保ち、連綿とその伝統を受け継いで来たんだな。我々日本人のすぐそばに、寡黙に、謙虚に、しかし忠実に存在してくれていた。そう、柴犬のように」
無意識に流れ出した一粒の雫が頬をつたう(嘘)。
私はそっと蕎麦を食べ尽くし、美食ユニバースを全身で感じとった。
閉じた瞼に、これまでの料理の歴史の積み重ねを思い浮かべ、思わず肢体が震える。これが、コスモか。

「明日は大晦日だ。きっと年越し蕎麦を食べるだろう」
私は誰に言うともなく独りつぶやく。
「でも、たまには饂飩がいいな」
胃のなかの蕎麦が、ぴくんと動いた。


それでは明日もよろしくお願い致します。

日本料理の歴史 (歴史文化ライブラリー)

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