11月1日の日報

お疲れ様です。伊藤です。
本日はこれにて失礼いたします。

JR八王子駅前の繁華街に、小さな古本屋がひっそりと居を構えているのですが、そこそこ新しい小説でも最安で105円から買えるとあって、一時期は足繁く通った時期があります。

当時、そこで買ったある一冊の文庫本(沢木耕太郎)を、
これまた近場にあるスターバックスコーヒーで陣取った席にて早速開いて、
「ふむふむ」
と意識の半分を本に、残りの本をスタバの前を通りゆく人々(主にギャル)へと集中させながら読んでいました。

すると文中で、とても身に染み入る一句があったので、
後々読み返す際に目印になる様にページの端を折ろうと指を伸ばした瞬間、
思わずハッとして動きを止めてしまいました。
なぜなら、そのページの端に斜めの線、つまり折った跡が残っていたからなのです。

古い持ち主も、このページの中のこの一言に感動を覚えたに違いない。

今だからドラマチックに聞こえはしますが、
当時その瞬間は「うわ、怖っ!」とおののいたのが事実。
しかし落ち着いてよく考えると、
「こんな偶然、そうそうないぞ!」
言い得ぬ感慨深さにしげしげと折り目を見つめてしまいます。
名前も顔も知らないどこぞの誰かがこのページの端を折る時は、一体どんな気持ちだったのでしょう。

いわゆる啓発本に限らず、何かしら文書を読んでいると、
時々思いもよらぬタイミングで「はっ」とさせられる言葉に出会うことがありませんか。
これは俺のことではないか? と訝しむ程、ズバリ己の心境を言い当てる言葉にシンパを感じ、時に感動し、時に鼓舞され、時に傷に塩を塗り込められる気持ちになることがあります。
下手すりゃ、どんな一冊に人生を変えられるか、わかったものではありません。

その本は20年ほど前に出版されていた物で、
もちろん以前の持ち主がいつこの本を手にしたか定かではないにせよ、しかしページに印をつけた彼は、それからどんな風にこの言葉を反芻し、心に留め、それを糧に暮らしていたのだろうか……と想像せずにはいられません。
この、まさしく文字通り「人の手から手へ」渡っていく感動の連鎖、こりゃ実にアナログチックな話でございました。

どうしてこんな似つかないことを書くかというと、
今日、日経新聞のコラム「春秋」を数日分読み返していたら、
これまた「ハッ」してしまうコラムを見つけたからなのです。

古本に前の持ち主の書き込みや傍線が見つかると、たいがいは「汚れちまって」とがっかりする。
が、たまには我が意を得たりという「汚れ」がある。
同じ箇所に心を動かされ、同じ感想を抱いていると分かるような場合だ。
(中略)
時空を超えて知らぬ人とコンビが組めるのだから本は面白い。といったことを読書週間のこの時期、古本屋街をぶらぶらしながら考える。
書き込みに加え、日付とローマ字の女の名が残る洋書を70年もたって書棚の奥から取り出し、女性に思いをはせるという作家・山田稔さんの随想がある。汚れたればこその懐旧だろう。

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO47892710R31C12A0MM8000/

このコラムは、
今後普及していくであろう電子書籍に果たしてこんな芸当は再現できないだろう……といった具合に続けます。

私は、デジタル時代の到来を憂うどころか歓迎する立場ですが、
そのテの善し悪しを論ずる以前に、
ただ単に、なるほど、きっとデジタルにはデジタルなりの「感動の連鎖」が起こっていくだろうな〜、と思います。
「紙だった時代の感覚を『移行』しようとするから話がこじれる、この際イチから世界を新しく作ればいい」
最近はそう思うことで、妙な新旧世代合戦からいい具合に距離を置けてる気がしています。

例えば私の孫あたりの世代は、古本というシステムが消え去った世界で育つかもしれませんが、私が例の一冊で味わった「偶然の驚きと悦び」をどんな形で享受するのでしょうか。
やっぱり、SNSとかなのかしらん。

これまた色々と考えさせられたのでした。
それでは明日も宜しくお願い致します。

こんな優しい文章を書いてて「こんなの、俺じゃねぇ☆」と自己嫌悪に陥りつつ風呂入って寝ます。

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